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北島守幸 オフィシャルサイト http://moriyuki.net
前々から友人であるお父さんからも
話はよく聞いていたし
新聞でもアップで勇姿を見ていた。

私たちの近所のスター「村田大志」君

この度 ラグビー兵庫国体少年の部、準優勝
その主力として大活躍であった。
(オールジャパンにも選ばれるらしいとのことである。)

→思えばなんと2つ3つのころ
大でんぐり返りを軽くこなし
走っては膝が上がっているというか
この子はイケル!と思ったものだ。

最近は一緒に並んだことがないが
180㎝はあるという

今風な体型に顔が小さく足が長い
お母さんゆずりだと思う。

しかし、顔の中身はすっかりお父さんで
もう少し いい男なら
――――でも、それは求めすぎというもの

なんせ、勉強も北陽台高校でトップクラスとか

「ワセダもケイオウも、どこでもよからしか」

31年前の私に少しはゆずってほしいなぁ

「どっこもいくとこなかばい」と
同じくらいの成績の同級生と
割と大きな声で語ったあのころ・・・

さて、ラグビーは冬が本番で
国体の友は 即 敵陣でもある

レベルの高い長崎県では
代表校になるのが、むずかしいらしい。

ガンバレ!!近所のスーパースター

村田大志君
「シェプテンバー♪そして9月は さよならの秋~♪」
かつてヘタながら まことにヘタながら
よく歌っていた 竹内まりやの「シェプテンバー」

9月議会も終盤のこの時期 その合間をぬう様に
いろんな催しがよくもまああったもんだ。

土日、土日に次々消化していく行事。
――と言い切りたいところだったが
おっとどっこい タイフーンがやってきた。

「9月17日 午後6時前後 あなたは
 どこで 何をしていましたか?」

けっこう きました。 揺れました。

秋の日は つるべ落とし。
あっという間に 真っ暗闇。

子供たちは(お前が1番と言う声あり)季節はずれの
クリスマス気分?で ローソクをあっちこっちに灯して
1~2時間の停電かなぁ・・(実際は26時間)と気軽にワイワイガヤガヤ

しかし その一方で 風の音 木がきしむ音 何かが割れる音

1人暮らしの人など 泣きたくなるだろうなぁと思ってしまった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

考えてみれば 人間平和に出来ている。
前日の夜 ニュースでさかんに タイフーンを言っているのに 
我々 のんのこ初出場組は 
翌日の昼下がりに踊る浮立の稽古をし
且つ 打上げの話をし、飲んでさわいでいたのだ。

さすがに当日の朝、中止が決まったが
それでも せっかく寄ったので
朝からビールでも一杯とお気軽なこと

昼前 降りだした雨の中を
「なんばすーかねぇ」と、帰宅のとについた。

知らぬが仏。

「ヨイヨイ」も「シュッ」(祭りのかけ声)もここまで。
タイフーンの翌日=祭りのあるはずの翌日は
「まつり」のまの字もどこへやら
後片付けと 苦情処理で 大わらわ

18日が「老人の日」などと 思いもつかぬまま
祭りの後のさびしさを感じる代わりに
「天災は 忘れた頃に やってくる」を
まさに実感している 9月19日の夜でした。
蒸し暑くて 久々に早起きした。
5時前だった。

1才の息子も寝苦しいらしく 大きな声で泣いていたが
またすぐ カワイイ顔をして眠りについた。
妻が小さい声で子守唄を歌っていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨日の夜は次女のクラス合宿とやらにちょっと顔を出した。

一生懸命子供たちに語りかけている担任の先生。
の割りに、子供たちは 暑いのか眠いのか だれていた。
今どきの中学生だなぁと思った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

朝から新聞を読み、広告をながめた。
ふと目をやると「日本遺族通信」
がテーブルのはしにあった。
これは2ヶ月に1度くる会報誌で
見かけは新聞である。

表のメイン 8月15日の小泉首相「靖国参拝」
このことには 今日はふれない。

裏面、左上に常設コーナーがある
題は「愛しきものへ」
戦地で散った方々の遺書が掲載されている

内容もさることながら年令が若い、若すぎる
今回の方は17才、マニラ南方海上にて戦死、とある

内容は、戦地で散る覚悟、お母様に対する思いが語られ
お姉様に対しては「お母様をお願い致します。」の文の後に
「お母様のことは頼むが、お姉さんも早く結婚して
安心させてやることを望んでいる。」とある。

このお姉さんは、いくつだったのだろうか
ご「老齢」とあるお母様は、この時いくつだったのであろうか

蒸し暑い朝が一段と重くなる。


と、時計を見ると6時20分過ぎ
小5の息子を起こし、ラジオ体操へやる。
すっと起きて、眠ったまま出て行った。

今日は長女が夏のイベントの為帰ってくる。
のぞみ公園で歌うのだ。

「お金がない」と催促のあった長男へ
入金もしなければならない。
市役所支所へも出かけなければならない。

あれこれ考えているうちに
眠ったまま出て行った次男が、起きて帰ってきた。



少し涼しい風も吹いてきた。

1日のスタートだ。
年に何回か乗る飛行機は着陸少し前が楽しみだ。

つい先日もふるさとを空の上からたっぷり楽しんだ。

飛行機は空港に降りる際すべてかどうか知らないが
島原半島の南はしを大きくカーブして橘湾へ入り
有喜港あたりから多良見上空へ
そしてまっすぐ大村湾を通って滑走路へ降りるようだ。

この日は雨の多い季節にもかかわらず良く晴れた日で
午後6時ごろではあったが夏の日はまだ
すべてを明るく鮮明に見せてくれた。

体をのり出すと左方向に喜小、喜中が並んで鎮座し
旧役場(現支所)高速道路、ゴルフ場、国道34号、個々の家々、車
すべて本当にきれいに見えた。

残念ながら我が家は真下あたりの為見えなかったが。

今は使われなくなったゴミ焼却場のちょっとシャレた煙突も
木々の緑とマッチしていた。

大村湾は波ひとつなくまさに「琴の海」らしき顔で私を出迎えてくれた。


若き日の7年ほどをのぞき私はずっと同じところに住んでいる。
今はなき両親も地元の生まれで
やはりこの飛行機の通る真下あたりで一生を終えた。

母はなんと幅1mあるなしの道を隔てた隣りの家から嫁いだ人だ。
親の決めた結婚であったとか。

かつて純農村地区であったふるさとも大きく様変わりし
私など中学のとき牛をひいて草を食べさせたことなど
自分自身が「夢の中の話?」と思ってしまう。

大村湾に注ぐ海岸線は、年中我らの遊び場で
海沿いの雑木林にひみっか(秘密の家)を作ったり
岩場も砂浜もあって流れ着くいろんなものに
時に大興奮したものである。

これからも住み続けるであろうふるさとが
いろんな人の目にこんなにきれいな絵として映っていることに
とても幸せな気持ちになった。


旅の終わりに着陸態勢に入ったら
飛行機の窓から目を凝らして下を見ていただきたい。
ひょっとするとその飛行機を
ボケッと見上げているおじさん(私)がいるかもしれない。
この週末、50才になりたてのおじさんは「充実していた。」

その1つ、土曜昼から日曜午前中までの、PTA会長研修会
雲仙は諏訪の池湖畔の宿にて。

行ってみて気付いたのだが、上の子供22歳と20歳が小さいころ
ここのプールで泳いだことがあった

今日来て見ると荒れている
プールサイドの草が大きくなりすぎて変な模様になっている。

それはともかく夜の懇親会は、とてもはずんだ。
まず年齢の話題になって
まず上の子がまだ小学生の57歳の方がおられて
続いて53歳が2人、51歳、私と同年の50歳と
けっこう年配がいるもんだ。

この研修会で、とても気をよくしたことが1つ

最近は地元では合併が本当に良かったのか。

ハード事業が進まない。
ゴミ袋が使いにくくなった。
老人祝金がなくなった(多良見町はちょっと良すぎた)
役場(多良見支所)に知った人がいなくなった等々

苦い話が並ぶ

合併推進派としては「今は過渡期」

合併効果は、その内にあらわれる。

と言いつつ、いつそうなるやろかとふと思ったりしていたが・・・。

まさに合併効果なるものがあった。

PTA連合会の会長が、市当局、教育部会に
「これこれを提案しよう!」

あっと、おどろいて(少し考えればわかることだが)

なんと市長は1人、教育長も1人
いわゆる、市P連が当局と呼ぶ相手は1つなのだ!!

あったり前でしょ。と言うなかれ

かつて属した西彼杵郡PTA連合会では
「親はかくあるべき」
「先生にはこうあってほしい」
「PTAはこう進もう」
との話し合いは出来ても

当局に○○を要望しよう。とか
市長に役員で会いに行こう。とか
教育長と懇談しよう。
なんてことは出来なかった。

話にも出なかった。

なぜか相手が多すぎた。
15町あったので、町長も教育長も15人ずつ

しかも年齢も経験も任期も教育に対する考え方もいろいろ
(と言うより、よその町長や教育長は顔すら知らないのです)

→ターゲットにならないのです

新諫早P連42校はターゲットが1つしかないのです
こっちが考えがまとまれば1ヶ所に行けばいいのです

→まさに合併効果

ここにありました

少し考えればわかること。
ではあるが

私は6月24日夜ビールを飲んでいる時
懇親会でこれを肌で感じて
とても とても うれしくなりましたとさ。

5月18日に2泊3日の主な行程を終え
諫早市に行革の嵐を吹かしてやるぞとの強い志
(などではないが、とにかくよく勉強した3日間ではあった)

愛妻愛子の待つ長崎空港へと飛び立つ直前
アクシデントは起きた。

(後で考えてみると)

理由1・搭乗口番号の勝手な思い込み
   (おおきく外れてはいなかった)

理由2・出発時刻の曖昧な記憶
   (キップを見れ!!太く書いてある)

理由3・待ち時間がありすぎて喫茶店に行き
    そこを出た後、土産を買う人等と別れ
    1人で早めに待合場所へ行った。
   (理由1へ続く)

理由4・(これは少しショック)
    3列ほどななめ後に、同僚議員2名がいた。
   (これで、すっかり安心してしまった。)

理由5・週刊誌を買って、そこそこ興味のある記事を読み込んだ。
    そして、うとうととした。次の瞬間。


「アレッ?」周りの異変。

 変な胸騒ぎ。

搭乗口は「103」なのに私は「107」or「108」の前。

でも~~っ、ななめ後の同僚議員、IさんとUさんが―――
「いない!!」

あわてて、走る

「あのう、長崎便はぁ?」

「もう、搭乗手続きを締め切りました。」

「どうして・・」

「時間が過ぎてます」

時計を見ると出発時刻とちょうど同じ「15:55」

「もうだめですか?」

「ダメです」きっぱりした返事。


私のお隣は半泣きの若き母親
「乗せてぇ」と、くいさがっている。
4~5歳くらいの子供はキョトンとしていた。

「困るんです~」「定刻です」

「困るんです~」「ダメです」

きっぱりしている。
自分のことはともかく、この親子がかわいそうになった。

幸い1時間後の飛行機で無事長崎に帰れました。

「行革委員 失格!!」同僚議員のみなさんご迷惑をおかけしました。
世話をしてくれた事務局職員2名さま
ホントにホントに「す・み・ま・せ・ん・でした<(_ _)>」
去る4月末、健康診断によって「高血圧」と診断される。
その他指摘項目も数箇所。
まず「デブ」を直せとのこと。「ハイ」と軽い返事。

しかし10㎏も20㎏も、落とせない。
ついつい、次の食事から「ガンバロー」コールが聞こえる。

血圧計を買い毎日計っていると、1つの事に気づいた。
「白衣○○症候群」と呼ばれる部類らしい。

家ではそんなに高くない(?)
環境が変わると「ハイテンション」になりやすい。



―――この事は、自分自身でもよくわかる。



妻に「くだ~~~らんことでも、よくそげん熱く語れるねぇ」
「50歳くらいで、そげん熱く語る人はおらんと思う。」
と、言われる。

その1例として

先ほどこられた方に、ついつい
「喜々津駅前商店街の今日を嘆く」というテーマ(になってしまった)で
熱く語ってしまった。

「昔はよかった。」類の話はしたくないが
なんとか「賑わいのあるストリート」にしたい。
どうしたらいいのか。

個々のお店に要求するのにも限りがあるし
時代に流れとあきらめればそこまで。

ここに生まれ、ここで育ち
子供たちにも「世界にはばたけ」と言いつつ
「戻ってきてもよかよ」とも言いたい。

ない知恵をしぼっているのです!!

―――ふと、我に返った。

先ほどのご来店の方は、腰を上げるチャンスをなくし少し困った顔
「話はこの辺でお開きに・・・」との雰囲気を見極めるやいなや

刑を終えた受刑囚のごとく
晴れ晴れとして、帰っていかれましたとさ。


私の高血圧は、他人にも影響を与えるタイプです。
今日は娘の学校の運動会だった。

週間予報では今日は雨。
雨だと水曜日にあることになっていて
残念ながら議会の出張で全くみれないはずの運動会だったが

私の日頃の行いがよかったか(良いはずはない)
諸先生がよかったか、生徒がよかったか
とにかくいい天気で、運動会日和であった。

さわやかな五月の風も気持ちよく
たまに通るJRの白いカモメ号も私の目には
運動会に「花をそえている」風に映った。

さて本来は見るだけの運動会だが
事前エントリーしていた「綱引き」とは別に
急な呼びかけに真っ先に応じて障害物競走に出た。

半周というなかれ
走って10~20mくらいであった「なわの波」につまづいた。
ほとんど這って抜け出した後はそこそこだったが、とても疲れた。

綱引きもなぜか一生懸命引いてしまうので
2回やって、どっと疲れた。

グランドをバンバンかける子供たち
それにまじって先生たちも軽快に走っている。

気がつけば50才。校長先生、教頭先生を除いて
私より年上の先生は、何人かしかいそうにない。

足には自信のあった子供時代。
大人になってもそこそこいけるとは思っていたが
今、走っている人を見ただけで「エライ!!」と思ってしまう。
自分の体の機能を自分の頭がやっと理解してきた。

スポーツはだんだんみること専門になってきているのか。

―――娘も中3。あっという間に中学校をかけ抜ける。
春の五月に郷愁にふけるのはまだ早いが
「大きくなったなぁ。」
誰に似たのか足は遅いが、女らしくなってほしいもんだ。

勉強も思い出したら、そこそこしてね。
旧日本兵の上野さんという方が帰国された。

昨日テレビでほんのちょっと見ただけの印象を言うと
「帰国」より「来日」と言う感じ。

なんせ日本語を忘れてしまっておられる。
一緒に来られた長男さんもいわゆる外国の人の風情。

この方の戦後は、どのようなものだったのか。
私たちにはとうていわからない「苦労」があったことと思う。

幸い兄弟姉妹の方々が何人もおられるようで
とにかく60数年を少しでもうめてほしい。
ふるさとをゆっくり楽しんでもらいたい。



戦後のソ連軍の日本兵に対する強制労働等で
旧ソ連の奥地、黒海周辺部まで連れて行かれ
諸事情で帰国しそびれ現地の方と結婚したりして
住みつかれた方も結構いるらしい。

戦後の日本国と、旧ソ連との政治の違い、国交のなさから
帰るに帰られなかったのか

望郷の想いは「ひとしお」であったろう。
もうあとのない年令となり思い立たれたことだろう。

さてこの上野さんと「同世代の84才(生きていれば)」
我が親族に、南の国ニューギニアにて戦死した人がいる。
父の弟である。

軍服姿の写真のような肖像画を小さいころから見ていたが
もしこの人が生きていて帰って来たら
叔母達(本人の妹達)はとても喜ぶことだろう。

残念なことに、私の父もいないし
最愛の両親(私の祖父母)は、はるか昔に亡くなっている。

柔道が強かったらしく「北島」のネーム入りの黒帯があった。
旧制諫早中学校の同窓生名簿や、
本人が大事にしていたものがいくつかあったが

23才という若さで、見知らぬ南の国で命を散らせたことは
無念であったことと思う。

子供のころ祖父が私に軍隊のことなど語ることがあったが
この叔父のことを語ることはなかった。
ふれたくない話だったのだろう。

我が父もまた私には、自分の弟の話などしたことはない。
しかし、叔父と同級生の人とは親しくしていたし
いろんな話をしていたようで
弟を同級生を通して思い出していたのだろう。

喜々津地区の遺族会という会の会長を死ぬまでつとめていたのは
そういう思いがあったからであろう。

今私が、直接の遺児でもないのに、この遺族会の役をやっている。
それは、いろんな方から「あんたが、つないでくれんね」
との依頼があったからではあるが
背景には、「父の思い」が以前から私の中に伝わっていたからであろうと思う。

この遺族会は、今、市の連合会という組織となった。
この会で、初めての方々との会合が何回かあった。
皆同じような経験をされ、意識の高い方たちばかりだ。

忘れられつつある「戦争」と「戦後」を、1つずつ勉強していきたいと思う。

そして、いつの日かニューギニアのカテカ島というところを訪ねてみたい。
「桜咲く、このよき日に・・・」
今日は、入学式。今頃こんな口上で挨拶をする人はいないが
それにしても、桜が満開で気持ちの良い1日だった。

午前に小学校。午後に中学校。
来賓の方々も、昼飯をはさんで忙しい1日となる。

PTA会長を務める喜々津中では「あいさつ」をしなければならず
一応文章も考えていった。

あまりに桜がきれいだったので、「桜」の話をいれようかと思ったが
下手に壇上で即興をやると、慣れてないので「全体をくずす」と判断しやめた。

夜、娘に感想を聞くと
「ヘンなところで言葉を切るので聞き苦しい」とのこと、ガックリ。

私の口調は聞き苦しいらしい。なーんだ。
文章以前の問題だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ところで、大学時代は応援団に入ろうかと思ったくらい
校歌とか応援歌の類が好きだ。

社会人1年生の時、熊本でとてもきれいな女性を職場の同僚から紹介されて
三井グリーンランドへとドライブした。

カーステレオには、小林旭のカセットが1本しかなく
「演歌は嫌い」とのことで、いろんな話の間に小学校から大学までの
「校歌ならびに応援歌を歌ってやりました」とさーーー

それが直接の原因でもなかったのだろうが
2度とその人とデートすることはなかった。
(悲しい過去である。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

話は戻って、午前中の喜々津東小では
「多良の遠根が呼んでいる~~っ」と
軽快なリズムの校歌を大声で歌ったら

ピカピカの1年生が、キョロキョロおじさんの方を見ていた。
不思議だったらしい。
中学校でも、大声で歌った。

考えてみれば、いい年をして母校の歌を公式の席で大声で歌えるとは
なんと幸せなことだろうか。

新1年生と、桜と、いい天気のおかげで
春のとても気持ちのいい1日となった。
去る3月10日、一般質問冒頭「いつものヤツ(最初のつかみで思いつきの話をしている)」
でこんな話でスタートした。
「エエ、おとなりの土井議員はお母さんが100歳。私は0歳児の子持ち。
まさにゆりかごから墓場まで・・・」
議場に笑いがおこる。という風であった。

私の直前の質問者が土井議員で「介護」をテーマとした質問の
しめくくりにお母上の話を紹介された。

とてもまじめな人で、地元の人望も厚く
また現役のスポーツ選手で、相撲、長距離等々を
若い人と一緒にこなしている。地元地区の自治会長もされている。

本会議場の席も隣同士。名前に「幸」の字がつく。
会派も同じときて、知り合って11ヶ月でまさに「かなりの友人」である。

彼が「母は100歳で」と言った時、もし私の母が健在であったなら
この母を話にもってきただろうなぁと思う。
残念ながらこの母は今はもういない。
来る18日が命日。選挙準備で慌しい中、静かに彼の地へ行ってしまった。

にぎやかで、話の面白い人であった。柄は小さく、小食で働き者。
家の周りが「街化」して田も畑もなくなったが
田畑だらけのころはバンバン百姓をこなしていた。

もう寝込んで10年近くなるすぐ近くの叔父(母の弟)一家がいつも手伝ってくれて
かなりの広さの農地をきりもりしていた。
(その間、父は何をしていたのだろう?色々やっていたようだけど。)

母が倒れた時(平成14年夏)真っ先に思ったのが
もうあの「味噌汁」が「飲めんなぁ」という事。
この辺の言葉で「塩はいか」味噌汁。
しょっぱいということ。

百姓だったので、どうしても塩味の濃いものになったと思うが
私としては、これぞ「おふくろの味」であった。
他にとり立てて料理が思いつかないのは
おふくろに対しては、はなはだ失礼ではあるが
あの味噌汁がまた飲みたいなぁとは、よく思うことである。

教養はないが、頭の回転は早かったようで、私が小さい頃は、イソップ話にかわって
じいさん、ばあさんの登場する、あまり品の良くない
ありそうな、なさそうな作り話をよくしてくれた。

また、兄が若い頃東京に数年いたころ
たった1度行ったきりの東京の話をよくしていた。
テレビで東京が映る度(ニュース、ドラマなんでも)
「ここは○○。この電車は○○行きバイ」とか
たった1度の東京がよく出てきた。
当然、私が上京してからは、この自慢話は消えた。

ばあちゃん(母の母)が面白い人だったので
本当はもっと、はしゃぎたかったのだろうが
厳格な父(母の)と、ワンマンの夫のせいで
表面は、大分おさえていたようだ。

倒れて認知症になり、初めて100%ハジケたようだ。
変な話、晩年の母は数倍面白かった。

生まれた所と、嫁いだ所が道一本隔てたところ(昔は隣同士)
とは、良かったのか、悪かったのか。

暖かくなって、桜もそろそろの今日この頃。いい季節になった。もうすぐお彼岸。

86年を生きた母のことを思い出してみた。
「そっちでは、話のネタはなんですか?」
去る2月21日は、父の誕生日であった。生きていれば90歳である。
「死んだ子の歳をかぞえる」と言うことわざがあるが
「死んだ親の歳をかぞえる」と言うこともままある。

特に私は兄弟4人の中で末っ子でもあったし、何かと親とのからみを思い出す。
昭和30年代にはめずらしかった自動車で、いろんな所へも連れて行ってもらった。
ただし「家族揃って」と言うのは、ただの1度もない。
もっぱら仕事がらみで人に会いに行ったり、建築現場へ行ったり

私のような子供に、なぜそこに行くのか、どのくらい用事に時間がかかるのかとか
細かい説明など一切ないので「カワイイ ボク」としては、ぽつんと車の中で1人残される。

特に時計が読めないころはなおさらで
泣きそうな位誰もいないところで長く長く待たされた記憶がある。
あれはどれくらいの時間だったんだろうか。

通り道にあるお店で買ってもらうお菓子とかがとても楽しみで
大人になってもなつかしく何回も買いに行ったのが、日見の「トンネルまんじゅう」
おいしかったが今はもうない。残念だ。

おやじとのそういったドライブは長く続いた。はっきり覚えているのは、中3の秋のこと。
場所は長与の岡郷あたり。一面田んぼだった。今はみごとに区画整理されている。

ラジオからは諫早高校野球部の九州大会での活躍のもようが流れていたと思う。

さすがに高校以降は、おやじとのドライブもほとんどなくなって、今思うと
私も忙しくなったが、おやじもS46年の3月から
「多良見町の助役」と言う勤め人になったせいで時間の自由がきかなくなったのだ。

うまく出来た話で、息子が一人歩きする頃
おやじもその相手が出来ない状態になっていたわけで。

逆から言えば、私は父とのかかわりの深い息子である。
今議員などやっているのも、この父の後姿を見てきたことにつきると思う。
私と違いおしゃべりではなかったが、子をおもう心、孫をおもう心は、人一倍であったと思う。

お世辞を含めて父をほめてくれる人の言葉は、素直に受け入れているし
いつのころか尊敬する人として「父」と書くようになった。
20060216193626
次男三男と夕食前の楽しいひととき。
2月上旬、議会内会派の研修で国会等を見学しました。
思えば12年ほど前も、多良見町議(当時)として国会を見学しました。

12年と言う歳月は、一緒にいたメンバーをすべて変え
案内していただいた方を、その方の親分(言い方が下品でしょうか)の国会の先生を変え

当時、小さかった私の子供が2人も今は東京人として
毎日を活き活きとすごしている現実からして
結構月日が経ったんだなあという気がします。

ただ議事堂及び建物なんかは12年程度では、何の変化もありません。
堂々とまさに堂々と、冬ではありますが青々とした空のもと
大東京の真ん中に君臨している様は「すごいなぁ」と
田舎物の私は、広い広い国会前の広場で感動していました。

この時期は、首都圏の小学校5,6年生の国会やら裁判所やらの見学が
よく組まれているらしく多くの小学生たちと一緒になりました。

田舎物のおじさんは、子供にすぐ話しかけます。
「どこから来たとぉ?」いやいや「どこから来たのぉ?」
「面白かねぇ?」いやいや「面白いいっ?」等々
標準語に直しながら語りかけます。

すぐ返事をしてくれる子もいますが、仲間でひそひそと
「あやしいオヤジ風」なニュアンスも感じられたり・・・・・。

そしてテレビでみかける大先生も普通に廊下を歩いていたりすると
ひとりまた感動してしまいます。
こんなところにいるとリアルタイムで国は動いているんだなぁと
これまた深い感慨がありました。

同僚のM議員に頼んだ、携帯での写真撮影は「保存」なる処理を忘れて
1枚も撮れてなかったり。

東京という大都会、日本の国、それを動かす人
どのポジションかは別として忙しいそうに動き回る人
優しく案内してくれる人
いろんな事を、花の東京で思いました。
papa.jpg


私の愛読紙のひとつに日経新聞があります。この新聞を読み出したきっかけは
かつて多良見町の町長をされていた石丸さんが交通安全協会の旅行の折
バスの中で難しそうな新聞を読んでいらして、とにかく写真が少なく色もなく
面白くなさそうな題目が並んでいるのを垣間見たのが最初でした。

すでにその時点で私も不動産業をやってましたし
「経済をしらんといかん。」という高い”志”のもと定期購読となったわけです。
以来すでに10数年がたちまして、とても為になっています。

ところで、この新聞で私が1番楽しみなのは、なんと1番裏面です。
そこには「功なり名を遂げた」著名な方々の人生が一ヶ月単位で載ります。
今年の1月もとても面白い方でした。

そしてここしばらくは、本来の経済の記事よりうーんと面白かったのが
裏1面の下のほうに連載されていた「男と女の愛」の物語でした。

主人公が私にちょっと上の人。作家というインテリではあったけど
おっさん的な考え方も、ちらちら見せてくれて、共感するセリフもありました。
女性の愛し方は、遠く私には及びませんが
最後あたりで登場した息子とそのフィアンセの言葉が「泣かせる文句」があって
ちょっとカッコ良すぎ「やっぱフィクションたいねぇ」と思ったりしましたが。

でも人生考え方を変えればどんな局面でも人は強く
そしてさわやかに希望をもっていきてゆけるなぁとも思いました
20060205215709

早いもので今年も あっという間に ひと月をくらしました。

1月は中旬に福島県「矢祭町」を訪ねました。
ご存知の方も多いと思いますが「合併しない町宣言」をして有名になった町です。
人気はおとろえず 我々がお邪魔した日も全国から11自治体の視察が組まれていました。
おとなり佐賀県の太良町議会の方もおられました。

町長さんいわく「なんでこんなに人がくるのかねぇ」とのことで
「特別なことはしてねぇよ」とのこと

マスコミの力は大きいなあと思う一方 役場にとめてあった1台の公用車の
マニアだったら興味を持つだろうと思われるほどの その古めかしさに
町長をリーダーとして ふるさとづくりに励む町民の心意気を感じました。

私は 「大きいことはいいことだ」との主旨で合併を推進し今日にいたっている人間ですが
「矢祭町」に対しては頑張ってほしいと素直に思います。

一昨日の 地元阿蘇神社の豆まきで「春はもうすぐ」を感じました。
当たりくじを引くこともありませんでしたが 
年年歳歳地元の祭りが賑やかに続くことを望みます。